思い通りにならないことも含めての仕事であり、
生活なんだ、ということが腑に落ちるようになってきた

 「みちのくの小京都」と呼ばれる秋田県の角館。江戸時代、その東の「白岩」という地域に理想の陶土が見つかり始まったとされる「白岩焼」は、佐竹藩の保護のもと隆盛を誇るも、明治時代に廃絶。昭和50年(1975)に窯元の末裔であった渡邊すなおさんが「和兵衛窯わへえがま」を開窯、夫の敏明さんが灯油窯を手作りし、復興した歴史をもつ。娘の葵さんが同窯で制作を開始したのは平成23年(2011)。伝統を受け継ぎながら、佇まいが美しい、今の暮らしに寄り添う器やアクセサリーを生み出している。岩手大学教育学部特設美術科の卒業生。両親も同窓生で、同科の陶芸研究室の立ち上げに携わったという。家族で営む窯を訪ね、創作の背景や想いを探った。
―陶芸は京都で学んだそうですね?
渡邊 両親からは「自分たちも好きな仕事をしているから、好きなことをやってね」と言われて育ちました。大学では最初、絵画を専攻したんです。でも何を表現すればいいのかわからなくなって。一度理論を勉強してみようと美術史を学び始めて大学院に進みました。東北の仏像を専門にしている先生のもとで学んでいたので、秋田や岩手の仏像を見に行くのですが、朽ち果てそうなものが結構あって。それを見ていたら、それまでは「伝統とか文化って、勝手に誰かがちゃんと守ってくれる」って思い込んでいたんですけど、「そんなわけないんだ」っていうことがわかったんですよね。それで実家の窯を継ごうと。陶芸は父に教えてもらおうと卒業してすぐ帰ってきたんですけど、親子喧嘩になっちゃってうまくいかなくて。何もできるようにならないまま月日が流れて「このままじゃダメだ」って、京都の、ろくろの技術に特化した焼き物の職業訓練学校で2年間学びました。それまで実家で鬱々とした時間を過ごしていたので「京都に行ったら焼き物以外のことはやらない」って決めて、アルバイトも、製陶所や陶芸家さんのもとで技術を磨いたり、高級な骨董品に触れられるので祇園の料亭で皿洗いをしたり、あらゆる場面で焼き物に没頭しました。―焦りや不安がエネルギーになって「徹底してやろう」って気持ちになったんでしょうね。

葵さんの父で陶芸家の敏明さん。和兵衛窯には敏明さんが作った灯油窯と登り窯があり、平成5(1993)年に完成した登り窯は「子どもたちに何か残したい」と8 年をかけて作った。
父から譲り受けた仕事場で「削り」という工程を行う葵さん。

影響を受けたアーティストはいますか?
渡邊 陶芸家だったらロゼリン・デリール。両親が図録を持っていて、たぶん焼き物で最初に衝撃を受けた作品だったと思います。すごくモダンな大型のオブジェなんです。焼き物をやるって決める前、小学生の頃から好きでした。あと、花人の中川幸夫。大量のバラの花びらを腐らせてオブジェを作ったりするんですけど、大学時代にアルバイトで貯めたお金で図録を買いました。改めてこのふたりの作品を見ると、命をすり減らすようにものを作っているような人が好きなんだなって思います。自分ではなかなかできないんですけどね。
―ご自身で作品を作られる際は、どんな点を大切にしていますか?
渡邊 焼き物って、「口」とか「手」とか、器の内側を表す「見込み」とか、部位を表す言葉が人間っぽいんですよね。「あの人見込みがあるよね」って言いますよね? だから生きているみたいに感じることが多くて。そこにちゃんと、スッと立っているみたいに見えるデザインにしたいっていうのはいつも思っています。それから、海鼠釉って、民藝って言われることも多いですが、すごく土着のものを作りたいわけではないので、個性を生かしながらちょっとモダンなデザインにしたいということも考えています。器やアクセサリーって、使ってもらってはじめて完成するところがあると思っているんですが、基本的に私は人づきあいは苦手で、だからものを作っているっていうのがやっぱりあって。それが自分にとってのコミュニケーションツールというか、作ってみて、誰かの反応があることで「この世界に生きている」と感じることはすごくあります。

窯詰め前のアクセサリー。海鼠釉の個性を生かすよう計算された形はどれも印象的だ。

―アクセサリーを作り始めたきっかけは?
渡邊 海鼠釉の蒼色は、釉薬の成分と陶土の鉄分が1300 度の窯の中で化学変化を起こすことで生まれます。窯の中の置く場所によって温度が微妙に異なるので、5種類の釉薬を作って、かけ分けをしているんです。窯詰めだけでも大人3人で5日間、灯油窯も父が手作りしたものなので、焼いてから外気との差をなくすまで冷却するのに5日間を要します。ろくろを引く時間や展示会の時間も考えると、どう頑張っても年5〜6回しか窯焚きができない。「このままでは家計がついていかないぞ」っていうことに気がついて。1回の窯焚きで生産量を上げるために隙間に小さなもの詰めようと思ったのがきっかけでした。海鼠釉の個性的な色も人目を引くだろうなって。当然のことながら父には「アクセサリーなんて作ってどうするんだ」って言われて、毎日窯詰めが終わってひとりになったときにこっそり入れていたんです。朝になって父がうっすら気がついているみたいな(笑)それを繰り返しての今なので、こんなにたくさん買ってもらえるようになって、すごく感慨深いです。
―秋田でものづくりをしていて感じることはありますか?
渡邊 やっぱり雪がめちゃくちゃ降るんですよね。陶土もひと晩放置すると凍っちゃう。当初は、なんて不毛なんだろうって。「この環境じゃなかったら、もっとたくさん作れるのに」と思っていたのですが、窯焚きもそうなんですけど、自分の思い通りにならないことを含めての仕事であり生活なんだということが、ようやくここ数年腑に落ちるようになってきました。思い通りになることの方が怖いし、危うい。ままならなさとともに制作する、生活するということは、今の自分にとってすごく大事だって思っています。
―2025 年は和兵衛窯の開窯50周年でした。今後の展望を教えてください。
渡邊 京都から秋田に帰ってきたのが2011 年。その時点でも両親は私が本当に焼き物を続けていくのか信じていなくて、余生を静かに過ごしたいという雰囲気だったんです。家としての仕事も全然なかったですし、2012 年頃、秋田のクラフトフェアに出展したときも、お客様の反応を見て「地元でも白岩焼が全然知られていない」ってちょっと焦って。作るのはもちろんだけど、広報活動もしなきゃダメだって、外に向けての発信や県内外の展示会を重ねてきました。その結果、50周年の展示会にはたくさんの方が来てくださった。ようやく白岩焼を知ってもらえるようになったなって、「ちょっとひと区切り」という感じがあって、これからは少しずつ「自分の表現」に向き合っていきたいなと思っています。

葵さんはろくろを引いているときに作品の着想を得るという。